うたかた


死にたがりの君と生きたがる僕。1



「死にたい」

私の命に期限がついた頃、彼は言った。
目の前の少年は特別仲がいいとか悪いとかもなく、この病院で出会ったただのトモダチ。
真っ白い病室のベッドの横、折りたたみの椅子に座っている。時折この橙色の髪の少年はこうして遊びに来てテレビで見たことや外出をしたときに見たもののことなど、なんてことない話をして帰っていくのだ。そんな、ただ流れていくだけの、それでも自分にとって一日一日がとても貴重な“日常”。

私は短命。いつ命尽きるかもわからない、ただ死を待つだけとなってしまった、病気。
彼は反対に、死ねない病気。
八十年前、彼の年齢は突然止まったらしい。身体の組織も当時のまま、彼は歳を重ねない身体になった。
最初は信じられなかったが、彼と出会ったのは五年前。確かに外見年齢は変わっていない。
見た目は十四歳程度、実際の年齢はもう百近いんだと彼は笑った。
八十年間、彼は十四歳のまま。同い年の友人が年老いていくのをまのあたりにしながら、自分だけが少年のままだというのは一体どんな気分だろうか。今のように笑えるようになるまでに、彼には一体どれだけの努力や葛藤があったのだろうか。体験出来ない自分には考えても結局のところ想像でしかない。
彼の“病気”は原因不明故に何時どんな症状が現れるかも、反対にどんなきっかけで治るかもわからないらしい。もし治った場合、止まっていた彼の時間を取り戻そうとして急速に老化が始まるかもしれない。そうなった時、身体が耐えられなければ昏睡状態に陥る危険もあるため彼はずっと、己の身体に異常を感じた数十年前からこの病院に入院していた。
最初は食欲の増進、その後急激なまでの減退。
異常なまでの食欲があった彼はそれこそ胃袋がどうなっているのか調べてみたくなる程のもので、しばらく続いたのち朝目が覚めたら何も食べたくなくなっていたという。
少しでも食べなければ身体を壊すと考えせめて一日一食食べようとしたが、どうにも食事が進まない。ならば次に腹が鳴ったときに食べようと思ったが、それから一度も腹が空腹を訴えることはなく、体重も減らずにいる。
そして体温の低下。
三十六度五分という高めの平熱だったはずが、三十五度代、三十四度代と下がっていき、終いには人間が仮死状態になるまでの体温―――つまり動物が冬眠する時の体温にまで下がったのだ。
彼―――レンはそのせいで眠りを強いられ、徐々に睡眠時間が長くなっていった。
レンがこの病院に来たばかりの頃の状態は知らないが、出会った時よりもレンがこの部屋に来る時間は減った。こうして一緒にいる時でさえ眠気を払うように頭を横に振っていることがある。
十日置きに来ていた彼が、少しずつ間隔が延びて最近は二十日置きになった。
目が覚めた時は必ずここに来ると云った彼の言葉が本当ならば二十日に一度しか目を覚ましていないことになる。
レンはとても優しく、明るいひとだ。弱っていく身体のせいで自由に動くことも出来なくて沈みがちだった私の前に、彼は現れた。その笑顔はまるで太陽のようで、彼が笑うと自然と此方も笑顔になれる。
出会いは本当に些細なことで、自動販売機にジュースを買いに行ったときに声をかけられたことがあり、詳しい経緯は忘れてしまったけれど病室を教えて、それから顔を見せるようになった。
なぜ大した用事もないのに来るのだろうと最初は疑問しかなかったが、次第にそれが普通になり、今では彼が来る日を心待ちにしている。
もしかしたら。
不意に、唐突に。不安が過ぎる。
もしかしたら、彼が眠っている間に私の心臓は止まるかもしれない。彼が目覚めた時、全てが終わっているかもしれない。二十日間もあればその可能性はとても高く、このベッドには他の誰かが寝ていることだってあるだろう。
そうしたら、優しい彼の性格上自らを恨むかもしれない。だからそうならないように、頼んでおこうか。
レンが寝ている間にドナーが見付かり、手術が成功して退院したと。レンに何も言わずに行くことを許して欲しいと言っていたと、彼にはそう告げるように。
ドナー。
そう、ドナーが見付かれば、私は助かるかもしれない。しかし私が欲しがっている臓器は心臓。人間の肺のように、小さく分けて五つあるものの悪い部分を取ってしまえば終わり、とか、そういったことが出来ない場所であるが故に私はただ、待つことしか出来ないでいた。
誰かの死を待つなんてことしたくないという想いと、小さな希望を持っていたのが一ヶ月前まで。
時間と共に落ちてゆく体力が、手術の成功率まで下げていた。
一ヶ月前は、ドナーさえ見付かれば八十パーセントの確率で私は助かった。
しかし今はもう五十パーセントの確率しかなかった。半分の確率で、ドナーが見付かっても死ぬ。
ならば、もう待たなくてもいい。
死にたくない、生きたい、という切実な願いを、諦めの気持ちで無理矢理抑えつける。
死ぬまでに、ドナーが見付かるかさえもわからないのだから。待って、来なかったと哀しみ嘆き、そのことを恨んで死んでいくなんて、寂しすぎる。そして、誰かが命を落とさなかったことを嘆くなんて惨めで、私がそんな私を許せない。

「ねぇ、レン」
「ん?」

こんな事を言うのは、彼には酷かもしれない。きっと誰よりも多くの死を見てきたレンだからこそ、余計に。
でも、出来るなら、レンに。レンに、伝えておきたかった。

「あのさ、いつか私が…」

なんて言葉で表現したらいいのだろう。
来年のこの時期は、きっと私はここにはいない。
期限がついてしまった命が消える時を、いつかと表現するのは可笑しいだろうか。

「私が死んだら」
「嫌だ」

まだ何も言っていないのに。
レンはすごく辛そうな顔をして、私の手を両手で包んで祈るように額をつけた。
瞼を閉じた彼の睫毛が小さく震えているのが見えて、嗚呼彼はこの先に続く言葉を何度も聞いているのだろうと予想がついた。

「お前の分まで生きてくれとか、そんなようなこと言うんだろ。皆そうだ。早く逝くヤツは皆言う。俺は長生きなんかしたくない。普通に生きて老いて死にたい」
「でも」
「そうだ俺は死ねない。でもだからこそ思うんだ。お前等が早く逝くのは俺が寿命吸い取ってるからなんじゃないかとか」

なに、それ。
彼が真剣なのはわかる。しかし笑わずにはいられなかった。

「ふふっ」

吸い取るなんてありえない。
縋るように上げられたレンの瞳は、肩を震わせ笑っている私を見るなり呆れた視線へと変わる。

「笑わないでくれよ」
「だって、吸い取るなんてありえない…」

何処からそんな発想が出てくるのだろう。
私にとっては思いつきもしない、むしろ考えていたのは正反対のことで。でも、そんなところがいい。

「こっちは真剣なのに」
「うん、そうだったね」

久々にこんなに笑ったかもしれない。
ごめんね、とまだ笑いが止まらないながらも謝るが、説得力ないんだけどと背を向けられてしまった。
それでもこの部屋から出て行かないでくれることが嬉しい。
出て行ってしまったら、私がそんなレンを追い掛けられないことを知っているから、だからこその彼の優しさ。こんなに些細なことでも彼が優しいひとであるということを実感出来る。

「違うよ。あなたが吸い取ってるんじゃない」
「…………」
「あなたは、早く逝く私や…他の人達の分まで生きてくれるんだよ。それは、きっと…」

人の寿命が皆同じだとして、それを全う出来なかった人は多く居るだろう。そんな時、プラスマイナスゼロにすることが大切なんだと思う。そうしなければ、いつか何かが傾いていく。
ゼロにする存在。
それが彼なんだと、私は思いたい。

「きっと?」
「うん。だからレンが気に病むことなんてないんだよ」
「一人で納得するなよ」

どれだけ何かを頑張っていてもいつか死に逝くことが運命で、死んでしまえば全てが意味がなくて。
だけど、彼のような存在が居れば、憶えてさえいてくれれば、自分という存在が永遠に抹消されることはないから。
そう。
レンは、希望。
憶えていてくれる人がいる、どんなカタチであれ期間が短かろうと長かろうと自分と関わったという事実が生き続けてくれること。それは、生きた証になるから。

「あなたがどうであれ、生きてさえいてくれれば私にとって救いなんだよ」
「そんなの、俺じゃなくたっていいだろ」

どうして自分が。
病気にかかった者、生まれつきであれ後天的なものであれ、理不尽な理由で死を受け入れなければならなくなった時誰もがそう考えると聞く。
私だって思った。
心拍数が異常に上がってしまっているこの心臓は、生まれつき弱かった。
どうして自分じゃなければいけなかったのか。他の人だっていいじゃないかと、ずっと思っていた。思い続けていた。
二十歳まで生きられないと告げられたのは十五の春。
二十歳になって希望が見えた冬。
余命宣告された、今年の夏。
来年まで生きられないかもしれない、と。
薄々感付いてはいた。
覚悟もしていた。が、信頼している主治医に言葉にして伝えられるとやはりショックは大きい。
今までの治療は何だったのかと怒りが生まれ、落ち着いた頃存在が定かでもない神に祈った。
今はもう諦めが大きい。
たとえば私が健康な身体だとしたら、私の代わりに誰かが苦しむことになるかもしれない。それが自分の家族だったら、子供だったら、孫だったらと思うと私で良かったんだ、そんな考えを持てるようになった。
一種の諦めではあるが、自分の代わりに悲しむ人がいないと云うだけで大きな救いになる。

「私を、忘れないで。レンに、忘れないで欲しい」

だからどうか生き続けてと。ただ、願う。
レンはきっと、知らずに誰かへ希望を植え付けていく。彼にとって別れの数だけ、悲しみの数だけ、私みたいな存在に希望を残していく。

「レン、生きて」

いつまでも、どうか。

「…ずるいだろ、そんなこと言われたら自分で死ぬことも出来ない」
「当たり前でしょ、死んで欲しくなくて言ってるんだから」

レンが苦笑する。
ふと、疑問に思った。
彼が眠っている間のことを私は何も知らない。仮死状態になっていると言っていたが、それは一体どんな状態なんだろう。
彼は今私が知る以外のことを教えてはくれない。
それが何だか、悔しかった。

「わかってるよ。だから俺はいつまでも死ねない」
「ごめんね、レン」

枷になる。
私はレンを生に繋ぎ止める足枷だ。彼が今まで出会った人達と共に、無数の枷の中のひとつになる。
静かに微笑んだレンに立ち上がり際くしゃりと頭を撫でられた。彼はこの部屋を後にする前にはいつもこうする。

「もう寝るの?」
「うん、ごめんな」
「いいよ。おやすみ、レン」
「おやすみ、また明日」
「うん」

レンの明日は、私の二十一日後。
どうか“また明日”の約束を守れるようにと、願う。
レンにとってそれは短い時間だろう。
だってたった一眠りだ。

その間に彼がどんな夢を見ているのかさえ、私にはわからない。

知る術など一つとして持たないのだ、私は。









死ぬということ。