うたかた


死にたがりの君と生きたがる僕。2



―――これは、夢だ。

レンは、目の前の光景を見るなりそう認識した。気付いたわけではなく、言うなれば、そうであることを“知っていた”。
そこはきらきらと輝いていた。
何処か遠く、このレンが知る世界ではない遠い世界で、それでもガラスの壁の向こう側にいる彼等は彼が良く知る彼等であり、同時に全く知らない彼等でもある。そこには自分自身でさえ含まれていて、此方側からは彼等が見えているが、ガラスさえ無ければ手が届くほどに近いというのに気付いていない様子を見るとどうやらあちら側からは見えていないらしい。
赤い服をその身に纏った髪の短い女性と桜色のウェーブのかかった長い髪をした女性が温かな目で見守る先には、青い髪をした男性とその周りにくっついてイタズラをしている黄色とオレンジのよく似た顔立ちの少女と少年がいる。

―――これは、夢だ。

その輪に入れないことに疎外感を感じてしまって、心の中でもう一度繰り返す。
少年は自分と全く同じ顔をしていて、同じ存在だということに気付いた。
赤い服の女性も桜色の髪の女性も青い髪の男性も、遠い遠い昔にレンが思い出へと変えてきたひとたちだ。
そこではとても穏やかで優しい時間が流れていて、自分にも同じように時間が流れているらしいことがわかった。

―――これは、夢だ。

今度は声に出してみようと思ったが、鼓膜には届くことなくじんわりと空気に染み込んで消えた。
瞼を下ろして光を遮断し、それからまた目を開ける。
目を開けても暗闇だった。
一面が星空のような空間に巻き込まれ、星は物凄い勢いで後退していく。否、レンが前に進んでいるのか。どちらにしろ光が糸をひくほどの速さでどちらかが動いていることはわかった。
夢はいつも同じ展開だ。
赤、青、緑の三原色に輝いたかと思うと白に瞬き包まれる。視界が開けた時には今より少しだけ成長した姿の少女が、海辺の砂浜に立ち尽くして切なげに何かを呟いていた。

しかし今そんな事はどうでもいい。
ふわりと生まれた風に髪を揺らしても尚何かを悔いるように瞼を伏せ続けている彼女を、レンは知っていた。
目が覚める度会いに行っているあの少女だ。既に少女と呼べる年齢ではないが、出会ったときの幼さを未だ残した彼女を女性と呼ぶにはまだ少し何かが足りない気がしたのだ。
あと二三年もすればもっと大人びて、時折見せる無邪気さもなりを潜めるのだろう。
彼女の先が永くないことを知っていながら、未来に想いを馳せることにはきっと意味などなにもない。
あの歳にして既に死を受け入れ生きることを諦めている少女と出会ったのは夢を見るようになって暫くしてからだった。いや、決して諦めているわけではない。
むしろ生きることを願い、不可能であることを同時に理解し納得してしまっている。
だからこそ、あの時言ったのだろう。

―――生きて。

永遠に生き続けることが運命となってしまったレンに憶えていてさえもらえば、記憶の中でいつまでも生きていられる。
レンが生きるぶんだけ。
生きた証だなんて、そんな風に言うなんて、ずるい。今まで会ってきた人々の中でも初めて告げられた言葉だった。もっとも、レンが己の境遇を告げたのはあの少女ただ一人であったが。
初めは未来が消えかかっている少女に伝えたら、怒るだろうと思った。怒らせてみたかった。彼女はいつでも哀愁を漂わせ時には苦しげに眉を寄せていたから。
正直自らの死ねないという呪われた体質に対して辟易して――殆ど八つ当たりのようになっていたと今になって考えてみれば思う――怒った顔が見たくてわざと言った。質の悪い冗談だと怒るだろうと思った。いっそのこと嫌って欲しかった。自分という存在を印象付ける感情ならば好意だろうが嫌悪だろうが何だって良かったのだ。目の前の少女は泣きそうな顔をして、短命であることを嘆いたのだと少しだけ息を吐き出し次に来るであろう罵声に身構えた。が。
ぼそりと彼女の唇から紡がれたのは予想を大きく裏切るものだった。
怒るわけでも泣くわけでも、馬鹿なことをと笑い飛ばすわけでもなく。

『それも何だか寂しいね』

リンは告げた本人が驚く程あっさりと、その信じられぬ事実を受け入れたのだ。
寂しいのだろうか。思わず尋ねそうになった。わからない、寂しいのかもしれない。
昔。尽きぬ命を手にし、消えゆく友の命を見ながらそんな感情を覚えたのかもしれないが、それはもうただの記憶として残るだけで実感がわかない。
“寂しい”のはいつものことだから、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
他人の死を見るのはもう何度になるだろう。
幾度となく見てきた死は苦しみながら逝く者も眠ったように逝くものもいたが、決まって彼等はどれだけ苦しんでいても最後は眠ったように安らかな顔でいた。
それが酷く切なくて、不意に沸き上がってくる喪失感と涙を堪えるために目を逸らしてきたのだ。
目を逸らしてどんなに避けても、生き続けるかぎり死は見つめ受け入れていかなくてはならない。
レンは、死ねない。
人より多くの死に遭遇し、これからも見ていかなくてはならない。
死は不条理だ。
何の前触れもなく唐突に、今まで人が生きてきた全てを奪い無にしてしまう。
レンはその瞬間がとてつもなく怖くて、怖くて怖くて怖くて、逃げ続けてきた。
相手と接する時には(あくまで気付かれないようにではあるが)出来るだけ距離をとり感情を入れないようにしてきた。

だけどもう、それさえも出来ない。
いつからだろう。五年の月日を共に過ごしたからという理由だけではなく、いつしか彼女の心の強さや儚さから目が離せなくなってしまったせいだ。この病院に入院している人達とは違う、目を離してしまえば此処ではない何処かへ消えて行ってしまいそうな危うさがあった。そうして目で追っているうちに哀しげに立ち尽くした少女が、心からの笑顔になれることを望んでしまった。
レンはもう、少女の死から逃げる術を無くしていた。
ふと、思う。
もしも眠っている間に彼女が息を引き取っていたら?
ぞくりと背中が粟立つ。
嫌だ。
この目に留めておきたい、最後の瞬間まで。
目を逸らしてしまいたい、全てを無にしてしまう、死から。
相反する想いは決して交わることはなく、重なることもない。
しかしふたつの想いはたったひとつの感情から成り立つものだった。
恋愛感情か否かはレン本人にすらわからなかったが、情が湧いていたのは確かだった。
死なせたくない。
願いなど無駄なことがわかっていたからもう何十年も忘れていたことだ。
死なせたくない。
この世に神などいない。もし居るとしても、それは平等に“見守る”だけだから聞き入れてくれることなどなく、己の力でどうにかするしか方法はないのだ。
そうと知っていながら、ただ、祈った。
神などいないと知っていながら、己の無力さを知りながら、ただ、ただ。

祈った。



やさしい夢。