うたかた


君のこえ

静かな場所。
その領域に足を踏み入れた瞬間、内にいる誰もが言葉を交わさない。私語は慎めという図書館の中、ただ一人俺は喧騒を味わっていた。
静寂の中にあるものは、優しさや喜びなどの感動や怒り、憎しみ、嫉み、悲しみといった様々な感情が飛び交っている。
どんなときでも聞こえなくなることのないその心の聲は、強い感情はより大きく脳に響いてくる。
死を望んでいる者、殺人を犯そうと企んでいる者、彼氏の腕に絡む女が考えるのは浮気相手の事等、全てが自分には筒抜けなのだ。
だからといって何か行動を起こすわけではない。自殺願望者は自分がどう足掻いてもその人自身の気も落ちが変わらなければ意味がないし、殺人者になるかもしれない者も、浮気をしている女も同様だ。どうせ変わらぬのなら、何もしないほうがいい。
言っても、本当のことでもどうせ気違いのような目で見られるだけだ。

「あの…」
突然女性が声をかけてきた。
勿論知り合いでもなんでもない。
ここには一人で来たし、友達といえる存在はいなかった。
「はい…?」
「具合でも悪いんですか?」
心配そうに彼女が顔を覗き込んできた。
思わず同じ距離だけ後ろにさがる。
時折開くドアの前で、いつまでも立っているのを見かねたのだろう。適当に誤魔化して、離れよう。
そう思った、が。

おかしかった。
彼女の聲が聞こえない。
どうして。

彼女の思念を探しても、それは雲を掴むような作業だった。
何も考えていないはずはない。
なぜならば、彼女の顔は明らかに不思議そうな顔をしている。
他の聲は聞こえているのに。
「いや、平気です」
答えて、失敗した。
この、思念が聞こえない女性と、なんらかの関わりを持ちたい。
そんな人は始めてだったから。
これではすぐに彼女は何処かへ行ってしまう。
もう、会えなくなってしまうかもしれない。
「あの、何処かでお茶しませんか?」
焦ったが、自分の口から出た言葉ではなかった。
「……え?」
「いつもここに来てくださっていますよね?」
ふわりと女性が笑った。
背後の入り口が開いて、肩までの長さの薄茶の髪が風にそっと靡く。
「はい」
本を読むために図書館に行くのに、さわりもせずに出て行くなんて今までないことだったが、断る理由など、何処にもなかった。





***





ファミレスやファーストフード店も候補にあがったが、結局図書館の近くの喫茶店で落ち着いた。
人気の殆どない喫茶店の、奥の方。窓際にすわって二人で珈琲を頼み、軽い自己紹介をした。
どうやら彼女…如月真央はあの図書館の経営者の孫らしい。先ほどの奇妙に思った言い回しもそれなら頷ける。
「あの、すいません」
小さな沈黙を破るように、彼女が突然謝ってきた。当然自分にはこの短時間で謝られるようなことなどない。
「何がですか?」
「三沢さんを無理矢理誘ってしまって」
今更な言葉を心底申し訳なさそうな顔をして言う彼女。
「いや、別に俺は暇でしたから」
なんだ、そんな事かと思いつつ答えると、彼女はまた木漏れ日のように優しく笑った。
「良かった」
「如月さんは何をしているんですか?」
「私は…大学生でした」
変わらぬ笑顔のままの彼女の応答にひっかかりを憶える。
今、彼女は“大学生でした”と言った。
聞き間違いではないはずだ。
「過去形…?」
「この間まで大学生だったんですけど、辞めて今は何もしてません」
「そう…ですか」
初っ端からまずい事を聞いてしまっただろうか。
真面目そうに見える彼女が成績不良であるはずがないというのはただの偏見だが、こんなことは初対面の他人には話したくなかったかもしれない。
内心慌てるがその反面、久々の体験に少しの喜びもあった。
幼少期はまだ、聲なんて聞こえない普通の子供だった。少しずつ少しずつ聲は大きくなり、はっきりとした感情を持って脳に届いて来るようになったから、もう十何年振りだろう。
聲が聞こえるから、相手の触れて欲しくない話題には触れないし、万が一触れてしまってもすぐに逸らす。
こうして相手の気持ちを推し量るということは、もう忘れかけていた行為だ。
「三沢さんは何をなさってるんですか?」
「俺も、何もやってません」
「じゃあ私と同じですね」
他愛の無い雑談なんて、もう何年ぶりだろう。
忘れていた。
会話はこんなに楽しい。
だが、楽しい時間ほど早く過ぎていくもので、気がつけばいつの間にか窓の外は真っ暗になり、ホットを頼んだはずの珈琲はカップの中で冷めていた。
「もうこんな時間、か」
「早いですね」
彼女が少しでもそう思ってくれたことが、例え社交辞令でも嬉しかった。
「また、会えますか?」
こうして、話をしたい。
彼女は少し驚いたような顔をして、一瞬困った表情になり、その後綺麗に微笑んだ。
「ええ、きっと」

















続きます。
カナリ昔に書いた話です。あとで加筆&修正したいなあ。