BORDER


君のこえ 2


出会いはいつも突然で、それが当たり前だったから運命なんて感じなかった。
携帯電話のメールアドレスを交換し、互いを名前で呼ぶようになって一ヶ月。
彼女と一緒に居て、初めてかもしれない感情を知った。
人を、好きになった。
恋という感情は、多かれ少なかれ理想が混じっている。
心の聲が聞こえるということは、理想など持つ暇もなくその人の全てがわかってしまう。
だから、聲が聞こえない彼女だからこそ、好きになったのかもしれない。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや、なんでも…」
真央はずっと敬語だった。
癖だと言っていた。
だからそんなことはもう気にならなくなって、彼女の声が好きで、優しい微笑みが好きで、敬語さえも、全てが好きだと思える。

「大丈夫ですか?」
「え?」
「さっきからずっとぼぉっとしてますよ」
「ああ、悪い」
「何を頼みますか?」
真央がメニューを広げた。
ああそうだ、喫茶店にいたんだ。
漸く景色を取り戻す。
木製のテーブルと椅子に座って、周りに人は少ない。
ここの喫茶店は一人だけで来る客が多い。落ち着くために来るような場所だから、他の場所よりも数倍静かだ。
心の聲と、口から発せられる声の両方が聞こえる外とは違い、聞こえても心の聲だけ、しかも感情が高ぶっている人がいることも殆ど無い。図書館よりも落ち着くが、この喫茶店は午後三時からの営業だからそれまでの時間潰しのためにいつも図書館へ行っていたのだ。
「俺は…珈琲」
「じゃあいつもと同じですね」
真央が店員を呼び注文を終えると、不思議そうな顔で微笑み首を傾げた。
「さっきから、何かあったんですか?」
「……別になんもねぇけど」
「それならいいですけど…悩み等はあまり抱え込まないようにして下さいね」
「…ああ、それより…」
「はい?」
無意識に出た言葉に意味はなく、内心慌てた。
何がそれより、だ。
「…あー、と、そうだ、真央は本好きなのか?」
「ええ、好きです。小さな頃から本ばかり読んでいました」
「へぇ。流石図書館の…」
「関係ありません」
いつもよりも強い口調で遮られた。
「それは一つの肩書きであって、趣味には関係ありません」
「……そう、だな」
一瞬、真央から感情が流れ込んできたかと思った。
苦しみ、悲しみ、失望、諦め。
心臓が高く鳴っている。
負の感情を読み取った時、いつも起こる事だからもう慣れた。
だけど、真央からの感情には警戒していなかったから驚いただけだ。
「大丈夫ですか?」
「ん?ああ」
「何かありましたか?」
「いや、何もない」
言いながら真央の聲を聞いてみようとするが、やはり彼女の聲は聞こえなかった。
きっと先程の感情は気のせいだ。
そう思いたい。
「………外、出てみませんか?」

初めての提案だった。
今までずっとこの店、この席で話しているだけだったから。外に出れば今以上に大きく、多くの聲が聞こえて来るだろう。
それでも、彼女といれば今までとは違った聞こえ方になるかもしれない。
そんな希望を抱いて、頷いた。
「ああ」
嬉しげに、楽しげに、彼女が笑った。
注文した珈琲がテーブルに運ばれると、ゆっくりと口にカップをあてる。傾ける。
真央も同様に。

彼女の飲み方は綺麗だ。
特別上品なわけではなく、しかし流れるようなその動作はいつも。
店内で静かに流れるクラシックがゆったりとした盛り上がりを見せて、聞き覚えのある曲だということに気付く。
何処で聞いたのだろう。CMだろうか。
店内にいる客の誰かが珈琲のCMだ、と言った。否、違う。そう思った。

「何かついてますか?」
「……え?」

彼女と目を合わせると困ったように笑った。
「いえ、ずっとこちらを見ていたから」
「ぁ…悪い、ちょっと考え事してた」

困らせたらしい。
当たり前だ。誰だってじっと見られていい気分はしない。

外に出て街を歩き、公園の噴水近くのベンチに座った。
相変わらず聲は聞こえたままで、いい感情ばかりではないが。
悪い気はしなかった。
それは真央がいるからかもしれないし、目の前の噴水が爽やかで気持ちがいいからかもしれない。

どちらかなんてわからなかった。
両方かもしれない。
自分の感情なのだからと言っても、本当にわからないのだ。
他人の感情が聞こえる分、自分の感情がどれかわからなくなる。
たくさんの感情がある分、その中の一つの自分の感情が見つからない。
俺は今何を考えているのか。
そんなことさえわからないなんて。

馬鹿みたいだ、と自嘲した。
人間から遠ざかっているはずなのに、人間に踊らされてる。
悔しいとさえ思う。
だって、どうして、自分はこんな能力を持って生まれてきたのか。
こんな能力さえなければ、もっと自由に、普通に友達を作って過ごしていた。
人間の醜さなど、知らずにすんだ。
気味が悪い。自分自身が。

「例えば…」
「……?」
「俺が人の心を読めるとして、そしたら真央はどう思う?」
何を言ってるんだろう。
こんなの、どんな答えを聞いたって変わらないのに。

「それは、どんな声がですか。全部、聞こえてくるんですか」
「ああ」
「…羨ましい」

心の聲が聞けたなら、なんて。
そんなの、聞こえないから言えることだ。

「とは、思いません」

今まで友人のように接してきた者への質問の時とは正反対の答え。
ああやっぱりこの人は他とは違う。
興味本意で皆、聞いてみたいと言ったのに。

「そういう能力の方に会った事がありませんし、会っていたとしても私はその事を知りませんから、推測になりますが…」
「真央の心だって全部読んでるかもしれないんだぞ?気味悪いとは思わないのか?」
「思って、欲しいんですか?」

真っ直ぐに見つめられて、どうすればいいかわからなくなった。
「違う、と思う」
なんで、自分が、全部、全部聞こえてしまうんだろう。
こんな能力いらなかった。
いらない。
こんなもの、いらないのに。
聲が聞きたい奴が聞けなくて、どうして聞きたくもない俺が聞こえるんだ。
でも、今ならわかる気がした。
真央の本心が知りたい。

聞きたくもない聲は聞こえてくるのに、どうして聞きたい聲は聞こえないんだ。

「あなたが私の心を読めていたとしても、こうして私に接してくれているという事が嬉しいです」
優しく、笑った。
でも、
「俺は、真央を利用してるのと同じだ」
普通の人と同じように、その時間を過ごしたいがために真央と会っている俺は醜い。
他の人間を嫌悪しながら、同じ事をしている。
「…そう、ですか。それじゃあ私も貴方と同じです」
「は?」
「私は、こうして生きるためにたくさんの人を利用しています。貴方の事も、もしかしたら利用しているのかもしれません。だから、これでおあいこですね」
元気付けられていることがわかった。
くすりと笑った彼女が、噴水を見ながら座り直す。
「それに、これは例え話でしょう?」
「あ、ああ…」
「どうして突然そんな話を?」
まさか、自分の事だなんて言えない。
「本、だ。最近読んだ本に、そんな事が書いてあったから」
「そうですか。題名教えてもらってもいいですか?私も読んでみたいんですけど」
「題名は……忘れた。思い出したら教えるから」
思い出したら、なんて。

そんな本、存在しないというのに。

誤魔化すために笑って、他の話題に変えようと思った。丁度よく前を二人の子供が走った。
足音につられるように移した視線はじゃれあう二人の子供と子供が持つ黄色い風船にいく。
「昔」
「……はい?」
「ガキの頃、風船とかやたら欲しがらなかったか?」
不自然な逸らし方かもしれないが、普通の話題。
風船は、次の日にはほとんど浮かばなくなるとわかっていながら、自分は欲した。
何度も、何度も。
自由を思わせるそれに、魅せられたのかもしれない。

「いえ、私は」
「え、ねぇの?」
「ええ。…風船自体ほとんど見た事ありませんでしたし」
流石に彼女の言葉には驚いた。
風船をほとんど見た事がないなんて、何処のお嬢様だ。
風船がないほど山奥に住んでいたとか。
「ほとんど、というか今日で二回目ですね」柔らかな笑みで告げられた言葉を疑った。
「マジ?」
「ええ、本当です」
「じゃあ一回目はいつ見たんだ?」
忘れちゃいました、と微笑って、遠ざかる子供に視線を滑らせた。
悲しく寂しげで、何処か羨望の混じった眼差し。
「風船欲しいのか?」
「いえ、そういうわけではありません」
微笑み、ゆっくりと空を仰いでいる。
「風船は自由だと思いますか?」

突然真央がそんな事を言った。
この一か月、メールはほぼ毎日、週に三回ほど会ってきた。
その中でわかったことが携帯電話のメールアドレス以外に一つだけある。
ほぼ毎日メールをしてきて一つしかわかったことがないのだが。
彼女は、突然哲学的な事を尋ねてくるのだ。
人は死ぬと何処へ行くのか。天国があるという証明は、誰がしたのか。そんな事を。
もう驚かない。
「どうだろうな。そうなんじゃねぇの」
「私はそうは思えません」
「は?」
同意を求めているわけではないようだ。
「風船は、いつも糸に繋がっていますから」
彼女の表情が一瞬消える。
いつも柔らかなイメージで壊されているが異様なほどに白い肌の色に儚さを覚えた。
「でも、ふわふわしてんじゃねぇか」
「風が吹けば風に連れられて、糸があれば人に連れられて、自由と言えますか?」

確かにそれでは操られているようなものだ。
「空を飛ぶよりも、こうして地に足をついて歩き回れるほうが自由かもしれません」
糸は鎖のようなものですから。
ふわりと彼女が微笑った。
全てを諦め全てを許し、全てを受け入れているかのような笑みで。

「すみません」
「何が?」
「いえ、また変な事を言ってしまって」
「別に、気にしてねぇけど。そう思ってんだろ?」

頷いて、懐かしそうな顔で空の青を見つめていた。
空はいつも、変わらない。



人は何故夢を見るのでしょう。



「あ?」
「はい?」

また聞かれたかと思った。
確かに聞こえたはずだ。
夢を見るのは何故かと。
「今…何か言ったか?」
「いえ、何も?」
真央の声じゃない。だけど、真央の聲だ。
一度は聞きたいと思った聲。
だがそれは悲鳴のように苦しげで、切なかった。
何故、こんなに悲しいのだろう。
聞かなければ良かったのだろうか。この人も他と同じなのか。そう思ってしまった自分が嫌だった。

「……帰りましょうか」
「何でだ?」
「疲れているようですし、休んだ方がいいと思いますよ」
疲れているのか、俺が?
そんな事はないはず。
それよりいつもよりも思考が回って調子がいい。
いや、だからか。
意味のない思考ばかりを繰り返すのは、疲れているからか。
疲れているから、真央の声が聞こえたような気がしたのだろうか。
「悪ィ…帰るか」
「ええ」
「じゃあな」
「さようなら」
公園の出口で片手を上げて彼女と別れた。

家まで送ると言ったら、大丈夫だと断られた。




真央はその日から姿を消した。

続き。